ジャスパーと夏休み。二人の息はピッタリ!というほどでもなく、ほぼ平常心だ。
ジャスパーは学校には通っていないので、学校がお休みでも生活にさして変わりはないのだけれど、ママは密かにジャスパーの単独お出かけ、お友だちとのプールや外遊びを楽しみにしていた。
学校がある日の就学時間帯は「あらっ、学校は?」「おう、サボりか!」という優しい大人の温かな声かけが、申し訳なくも怖いので、一人ではお散歩にもお使いにも出せない。いつでも保護者同伴だ。
加えて住環境。マンションとは名ばかりの昭和築の小さな賃貸住宅住まい。ジャスパーの個室は用意してはあるもののベッドがまだ買えず、居間のローテーブル(要するにコタツ)を移動して布団を並べて寝ているので、24時間、ほぼべったりの二人暮らしだ。
私は「一人の時間」に慢性的に飢えている。夏休みを指折り数えていたのは、私の方だった。
夏休み中もいつも通りの学習をさせたいのは山々だったけれど、学校の夏休みドリルをわざわざ買った。知っている子に出会った時に、「ジャスパー、宿題ないんだろ?いいなあ!」から発生するかもしれない、イジメ封じのお札効果を期待しての小細工だ。
準備は万端、やりたいことリストまで作って、私は夏休みの到来を待ち構えていた。
けれど。
フタを開けてみれば、生活はあんまり変わらなかった。仲良しのお友だちは、いつもの習い事に加え、キャンプに旅行に、とても忙しくてほとんど会えない。会えても気温が高過ぎて、外遊びができない。
我が家はベッドも買えないギリギリ生活なので、旅行の予定は当然ナシ。夏休みらしいことをなかなかしてやれない。ごめん、ジャスパー。
先日、ようやく夏のイベント、「お友だちと花火大会!」に漕ぎ着けたけれど、夜の外出なので、私が同伴した。ああ、私の「一人の時間」はどこ。
三人できゃあきゃあ言いながら砂浜に敷物を広げ、場所を確保して、私は子どもたちに言った。「暗くなる前に、屋台に行って、美味しいものを探しておいで」。軽く手を振り、仲良く連れ立って歩いて行く二人の背中を見送った。
すると突然、ぽっかり、「一人の時間」ができた。砂浜、潮風、黄昏、三日月。最高の条件。
私は正座をほどき、膝を抱えて座り直した。波の音。遠いざわめき。あ、ジャスパーが大人になって巣立ったら、その先、ずーっと、一人の時間なんだ。突然、当たり前なのに忘れていたことに思い当たった。
「ちゃんと育てて、しっかり手放す」、ジャスパーが生まれたときから心に決めていたこと。ジャスパーはもう12歳だ。来年は中学生。二人の時間は、あまり残されていない。
少年二人が戻ってくるまでの時間は、20分足らずだったと思う。
でも、とりあえず、私は「一人の時間」を満喫して、満足した。どんどん減っていく「二人の時間」に気づくこともできた。やっぱり必要、「一人の時間」。すごく大切、「二人の時間」。
キラキラの花火に顔を輝かせる少年二人の横顔を見ながら思った。「ああ、子育て、満喫した~!満足した~!」と言えるおばあちゃんに、なりたい。うん、なろう。
あ、「面白かった~!」も言いたい。
ぜひ、言いたい。
Sweetbeansoup について
「ねえねえ、ママ。sweet bean soup ってなあに?」「お汁粉のこと。美味しそうでしょ~。お汁粉、知る子、ウフフ」「ダジャレだね、ママ」「寝る子は育つ。知る子も育つ。ウフフフフ」「もう寝ようよ、ママ」「ハイ、育ちましょう~」
2016年8月8日月曜日
2016年7月16日土曜日
"困っている子"と"困った大人"
これはジャスパーが学校に行けない日が多くなった頃、3年ほど前の話。
アスペルガーの私は、とても疲れやすい。1日出かけると1日寝込むのが通常なのに、この頃は、学校、病院、他、各機関での面談が毎日のように続いていた。
やっと家に帰っても、面談時に話がしやすいようにと書き物、調べものもした。どんどん疲れて夜、眠れなくなった。ジャスパーの寝言、歯ぎしり、夜驚も続いていた。
そんなある日のこと、台所の隅に座り込んで動けなくなっているところをジャスパーに見つかってしまった。シンク前、ゴミ箱横、とても居心地が良いとは言えない場所。
飛んできたジャスパーが尋ねた。「ママ、大丈夫?ママ、困ってる?…ボク、"困った子"?」。じっとうつむいている私の顔の下に潜るようにして、無理やり覗き込んでくるジャスパー。
「ううん、キミは"困った子"じゃないよ」。うめくように私は言った。「キミは今、"困っている子"なの。だから、ママはキミを助けたいの」「そうなのか~」「そうなのよ~」「ママ、ありがとう」「うん」。
二人ではぐはぐして、二人でちょっと泣いた。
ジャスパーは心配している。私を、そして自分自身を。自分が"困った子"だったらどうしよう、"悪い子"だったらどうしよう。私も抱いていた覚えがある、子どもの頃の心配ごと。
「…重い」。しばらくして我に返った私は、すっかり全身脱力してもたれかかっているジャスパーをひっぺがしながら、言った。「ねえ、ジャスパー」「ン?」
「"困った大人"っているでしょう?」「ウン?」「そういう人って、わがままだったり、乱暴だったり、甘えん坊だったり、まあ、"子どもっぽい"よね」「ウン」ジャスパーが居住まいを正した。
「大人が、"子どもっぽい"と、困るんだね」「ウン」「でも、子どもが、"子どもっぽい"のは自然なんだよ」「?」「だって、ネコはネコっぽいし、イヌはイヌっぽいでしょ」「あ、そっか」「だから、いいの」「そうなのか~」「そうなのよ~」
なんだか元気になってきた。そうだ、いいんだ。大丈夫。私は続けた。
「子どもは、大人になるまでに、"困った"を減らす、"いい方法"を見つける練習をするの。で、その練習が足りないまま、"子どもっぽい"ままで大人になっちゃった人が~~、」「"困った大人"!」「ご名答」
ジャスパーを安心させるつもりで話を始めて、自分も安心してしまった。
そうだ。困った減らしの練習中なのが、子ども。
今回の"困った"も、見方を変えれば、練習用の教材だ。
大人のママは、これまでの練習と経験を生かして、ウィンウィンの"いい方法"をひねり出しちゃおうじゃありませんか。
ジャスパーの目の前で、困った減らしのやり方を実地で実践で、見せて教えちゃおうじゃありませんか。
うん、よーし、俄然、元気出た。私はジャスパーの手を取って、立ち上がろうとした。
「…あー、ジャスパー、ゴメン。ママ、足しびれちゃった」
ジャスパーはママの手を取って、立ち上がった。
アスペルガーの私は、とても疲れやすい。1日出かけると1日寝込むのが通常なのに、この頃は、学校、病院、他、各機関での面談が毎日のように続いていた。
やっと家に帰っても、面談時に話がしやすいようにと書き物、調べものもした。どんどん疲れて夜、眠れなくなった。ジャスパーの寝言、歯ぎしり、夜驚も続いていた。
そんなある日のこと、台所の隅に座り込んで動けなくなっているところをジャスパーに見つかってしまった。シンク前、ゴミ箱横、とても居心地が良いとは言えない場所。
飛んできたジャスパーが尋ねた。「ママ、大丈夫?ママ、困ってる?…ボク、"困った子"?」。じっとうつむいている私の顔の下に潜るようにして、無理やり覗き込んでくるジャスパー。
「ううん、キミは"困った子"じゃないよ」。うめくように私は言った。「キミは今、"困っている子"なの。だから、ママはキミを助けたいの」「そうなのか~」「そうなのよ~」「ママ、ありがとう」「うん」。
二人ではぐはぐして、二人でちょっと泣いた。
ジャスパーは心配している。私を、そして自分自身を。自分が"困った子"だったらどうしよう、"悪い子"だったらどうしよう。私も抱いていた覚えがある、子どもの頃の心配ごと。
「…重い」。しばらくして我に返った私は、すっかり全身脱力してもたれかかっているジャスパーをひっぺがしながら、言った。「ねえ、ジャスパー」「ン?」
「"困った大人"っているでしょう?」「ウン?」「そういう人って、わがままだったり、乱暴だったり、甘えん坊だったり、まあ、"子どもっぽい"よね」「ウン」ジャスパーが居住まいを正した。
「大人が、"子どもっぽい"と、困るんだね」「ウン」「でも、子どもが、"子どもっぽい"のは自然なんだよ」「?」「だって、ネコはネコっぽいし、イヌはイヌっぽいでしょ」「あ、そっか」「だから、いいの」「そうなのか~」「そうなのよ~」
なんだか元気になってきた。そうだ、いいんだ。大丈夫。私は続けた。
「子どもは、大人になるまでに、"困った"を減らす、"いい方法"を見つける練習をするの。で、その練習が足りないまま、"子どもっぽい"ままで大人になっちゃった人が~~、」「"困った大人"!」「ご名答」
ジャスパーを安心させるつもりで話を始めて、自分も安心してしまった。
そうだ。困った減らしの練習中なのが、子ども。
今回の"困った"も、見方を変えれば、練習用の教材だ。
大人のママは、これまでの練習と経験を生かして、ウィンウィンの"いい方法"をひねり出しちゃおうじゃありませんか。
うん、よーし、俄然、元気出た。私はジャスパーの手を取って、立ち上がろうとした。
「…あー、ジャスパー、ゴメン。ママ、足しびれちゃった」
ジャスパーはママの手を取って、立ち上がった。
2016年7月15日金曜日
教える順番・国語の話
ジャスパーの学習サポートを始めて6年目。ジャスパーに教えてきてわかったことは、国語(第一言語)の習得、習熟が、何よりも大切だということ。
ジャスパーに教えていると、ボキャブラリーの大切さをひしひしと感じる。理科と社会は、突き詰めてしまえば、ボキャブラリー増強科目だ。そして算数さえも、鍵となるのはボキャブラリーだった。
ジャスパーとの算数は、入学直後から、いつも悩みの種だった。算数障害を疑ったりもした(実際そうかもしれない)。それが、ジャスパーの年齢が上がるにつれて、だんだん教えやすくなってきたのだ。
算数の特訓をしたわけではない。ジャスパーのボキャブラリー増加に伴って、理解力、洞察力、推理力も一緒に育ってきたのだ。
教える私も、ジャスパーのボキャブラリー増加で、説明する時に使えることばが増えて、どんどん楽になってきている。
ことばが理解を助ける。思考を導く。ジャスパーに足りなかったのは、算数力ではなくて国語力。生活の中で稼ぐ経験値、ボキャブラリーだったのだ。
小学校の算数は、学び手にことばが足りない状態で理解させようとするから、コトが必要以上にややこしくなっているのではないだろうか。
長方形の面積の計算を「底辺」という言葉がまだ理解できない段階の子どもに、「底辺」を「よこ」、高さを「たて」と呼び変えて、「たて×よこ」として教え込むから、面倒なことになるのだ。
「底辺」がことばとして子どもに通じるようになってから、三角も四角も台形も、ボトムは一律「底辺」で教える方が合理的だ。
三角形の面積「底辺×高さ÷2」も、よくわからないまま丸暗記させるより、「長方形を半分に切れば、そりゃあ三角形になるでしょう」と子どもが体験的に自然にわかるようになってから教えれば、教え手、学び手、双方とも快適になるだろう。
平行四辺形が長方形を水平に潰したものであることも、子どもがある程度育ってくれば「見抜ける」し、平行四辺形とひし形が仲間であることも、教えるまでもなく「わかる」。
垂直、平行、円周、直径、半径、などの単語が生活の中でボキャブラリーに追加されてから、「向かい合う二つの辺」などとということばが何を意味するものであるか、無理なく理解できるようになってから、図形の問題に取り組めばいい、と今の私は思う。
図形の問題だけでなく、小数も分数も、ややこしい単位も、工作や買い物、料理などを通じて、算数用語がジャスパーの生活ボキャブラリーに追加されてから、教えてやれば良かった。
あああ、今頃気付いた。ジャスパー、ごめん。
もっと本を読もう。ことばを覚えよう。生活経験値を上げて、ボキャブラリーを増やそう。
算数は、ゆっくり丁寧にやろう。今わからなくても、次に挑戦する時には、きっとわかるようになっているはず。今は種を蒔いておこう。一緒に育てよう。大丈夫、大丈夫。
青いトマトを収穫するから、手間暇かけて料理しなければ食べられないのだ。真っ赤に熟れるまでちゃんと待てば、そのまま美味しく丸かじりできる。
ジャスパーに教えていると、ボキャブラリーの大切さをひしひしと感じる。理科と社会は、突き詰めてしまえば、ボキャブラリー増強科目だ。そして算数さえも、鍵となるのはボキャブラリーだった。
ジャスパーとの算数は、入学直後から、いつも悩みの種だった。算数障害を疑ったりもした(実際そうかもしれない)。それが、ジャスパーの年齢が上がるにつれて、だんだん教えやすくなってきたのだ。
算数の特訓をしたわけではない。ジャスパーのボキャブラリー増加に伴って、理解力、洞察力、推理力も一緒に育ってきたのだ。
教える私も、ジャスパーのボキャブラリー増加で、説明する時に使えることばが増えて、どんどん楽になってきている。
ことばが理解を助ける。思考を導く。ジャスパーに足りなかったのは、算数力ではなくて国語力。生活の中で稼ぐ経験値、ボキャブラリーだったのだ。
小学校の算数は、学び手にことばが足りない状態で理解させようとするから、コトが必要以上にややこしくなっているのではないだろうか。
長方形の面積の計算を「底辺」という言葉がまだ理解できない段階の子どもに、「底辺」を「よこ」、高さを「たて」と呼び変えて、「たて×よこ」として教え込むから、面倒なことになるのだ。
「底辺」がことばとして子どもに通じるようになってから、三角も四角も台形も、ボトムは一律「底辺」で教える方が合理的だ。
三角形の面積「底辺×高さ÷2」も、よくわからないまま丸暗記させるより、「長方形を半分に切れば、そりゃあ三角形になるでしょう」と子どもが体験的に自然にわかるようになってから教えれば、教え手、学び手、双方とも快適になるだろう。
平行四辺形が長方形を水平に潰したものであることも、子どもがある程度育ってくれば「見抜ける」し、平行四辺形とひし形が仲間であることも、教えるまでもなく「わかる」。
垂直、平行、円周、直径、半径、などの単語が生活の中でボキャブラリーに追加されてから、「向かい合う二つの辺」などとということばが何を意味するものであるか、無理なく理解できるようになってから、図形の問題に取り組めばいい、と今の私は思う。
図形の問題だけでなく、小数も分数も、ややこしい単位も、工作や買い物、料理などを通じて、算数用語がジャスパーの生活ボキャブラリーに追加されてから、教えてやれば良かった。
あああ、今頃気付いた。ジャスパー、ごめん。
もっと本を読もう。ことばを覚えよう。生活経験値を上げて、ボキャブラリーを増やそう。
算数は、ゆっくり丁寧にやろう。今わからなくても、次に挑戦する時には、きっとわかるようになっているはず。今は種を蒔いておこう。一緒に育てよう。大丈夫、大丈夫。
青いトマトを収穫するから、手間暇かけて料理しなければ食べられないのだ。真っ赤に熟れるまでちゃんと待てば、そのまま美味しく丸かじりできる。
2016年7月14日木曜日
教える順番・算数の話
ジャスパーは算数が苦手。学ぶ本人は悶え苦しみ、教えるママも嘆き悲しむくらい、算数が苦手。
私はジャスパーに算数を教えることをよく「波打ち際で砂のお城を作るよう」と表現する。まあ要するに、じれったい。ああ、もう、どうして、キーッ!となるのを押さえるために、ピースフルな砂浜の映像を脳内再生する。ああッ、もうッ、どうしてッ、ざざーん。気を取り直して、ハイ、もう一度。
家庭での学習サポートは、ジャスパーが不登校になる前、入学直後から始まった。授業がわからない。宿題ができない。付きっきりで宿題と格闘した。3時間以上かかることも珍しくなかった。
教えて教えて、やっとわかって、とうとうできるようになっても、しばらくすると、ジャスパーの理解は波にさらわれていってしまう。本人は真面目に、必死で頑張っているのだ。泣きながら机に向かうジャスパーをなだめたり励ましたりしながら、私はこっそり途方に暮れた。
今年6年生のジャスパーと一緒に、算数の学習を五里も十里も霧中になって、千里の道をしょっちゅう引き返しては一歩から歩き直しているうちに、わかってきたことがある。ジャスパーに問題があることは、早い段階からわかっていた。でも、「算数」にも、いや、「教える順番」にも、問題があるのではないだろうか。
ジャスパーが使っている算数の教科書の段取りはこんな感じ。①問題提起。②解き方についていくつかの考え方バリエーションを並列で紹介。③それぞれについてみんなで考える。④解き方教授。その後、⑤自分で問題に挑戦。
この段取りは「考える力を身につける」という目的にかなっているように思えるが、よく考えてみると「すっかりわかっている大人」向けな気がしてならない。わかっている大人なら、落ち着いて、長い長い説明を受け入れることもできるだろう。バリエーション紹介を楽しむことさえできるだろう。しかし、相手は予備知識を持たない子どもだ。
「まっさらな子ども」になったつもりで見てみよう。①問題提起←全然わからない。②解き方紹介←ほとんどわからない。③みんなで考える←まだまだわからない。④解き方教授←やっとわかってくる。⑤問題に挑戦←ついにわかる!
授業では五段階の段取りうち、最初の実に三段階までが、延々とわからないままで進んでいくのだ。つかみはオッケー!(古いか)の逆。子どもたちは、わからない話に退屈しないだろうか。わからない自分に不安を感じないだろうか。
自閉症児のジャスパーは、簡単に退屈するし不安になる。脱線しやすいし混乱してワケワカランになる。授業の第四段階、メインイベントの解法教授まで、たどり着くことができないのだ。そりゃあ授業が苦痛な訳だ。
自閉症の人はその特性から、日本語より英語の方が文法的に分かりやすく感じると言われる。私自身、「何が」の主語がどんなものかわからないまま色々な説明を受け、最後にやっと「どうだ」と述語を明かされる日本語より、「何が」「どうだ」と知らされてから、追加で説明される英語の方が、安心で、迷子になることなく、受け入れやすい気がする(もっと早く気付きたかった)。
さて、教科書の算数の教え方は、とても日本語的だ。問題から答えまでの距離が長い。ジャスパーの話では、学校には「塾でやったから、知ってまーす、できまーす」な子が、少なからずいるそうだ。段取りの②、③段階、解法バリエーション考察に参加できるのは、そんな子たちと、日本語的教授法に適応できる、一握りのいわゆる「地頭の良い」子たちなのではないだろうか。
日本語文法が苦手にできているジャスパーに、日本語的な教え方はキツイ。ここまで考えると、教科書に別れを告げることにためらいはなくなった。解法バリエーションでジャスパーを混乱させ、私を悩ませてくれた、あいさんに、たくみさんに、その他大勢のキャラクターの皆さんに、サヨナラ。
ジャスパーの脳の作りに合った教え方を探せ!そう、それこそが、自身も当事者であるママの使命。自分が枠にはまるのは、ムリ。それを知っているから、ジャスパーを枠にはめるのも、ナシ。
思い立ったら即実行した。主語(問題提起)の直後にすぐ述語(解法教授)。問題に取り組み、繰り返し、既知という名の安心感を作った上で、ゆとりがあれば、解法バリエーション考察。ヘリクツやコジツケ、混乱のもとになりそうな文章題は、ばっさり無視。
ビンゴ。話が早い。教える側も学ぶ側も面白い。ジャスパーの食い付きが良くなった。失っていた自信も取り戻しつつある。ジャスパーの口から「ママ、算数って面白いね!」という言葉さえ飛び出すようになった。
とはいえ、ジャスパーとの算数が難業苦行なのは変わらずだ。ぐるぐる、ぐるぐるの回り道。時々、二人で協力して乗り越える段差。
同じような景色を何度も見てきているけれど、それでもそれが、緩やかな螺旋階段になっていることに、最近気付いた。
だんだん、風通しが良くなってきた。だんだん、見晴らしが良くなってきた。
私はジャスパーに算数を教えることをよく「波打ち際で砂のお城を作るよう」と表現する。まあ要するに、じれったい。ああ、もう、どうして、キーッ!となるのを押さえるために、ピースフルな砂浜の映像を脳内再生する。ああッ、もうッ、どうしてッ、ざざーん。気を取り直して、ハイ、もう一度。
家庭での学習サポートは、ジャスパーが不登校になる前、入学直後から始まった。授業がわからない。宿題ができない。付きっきりで宿題と格闘した。3時間以上かかることも珍しくなかった。
教えて教えて、やっとわかって、とうとうできるようになっても、しばらくすると、ジャスパーの理解は波にさらわれていってしまう。本人は真面目に、必死で頑張っているのだ。泣きながら机に向かうジャスパーをなだめたり励ましたりしながら、私はこっそり途方に暮れた。
今年6年生のジャスパーと一緒に、算数の学習を五里も十里も霧中になって、千里の道をしょっちゅう引き返しては一歩から歩き直しているうちに、わかってきたことがある。ジャスパーに問題があることは、早い段階からわかっていた。でも、「算数」にも、いや、「教える順番」にも、問題があるのではないだろうか。
ジャスパーが使っている算数の教科書の段取りはこんな感じ。①問題提起。②解き方についていくつかの考え方バリエーションを並列で紹介。③それぞれについてみんなで考える。④解き方教授。その後、⑤自分で問題に挑戦。
この段取りは「考える力を身につける」という目的にかなっているように思えるが、よく考えてみると「すっかりわかっている大人」向けな気がしてならない。わかっている大人なら、落ち着いて、長い長い説明を受け入れることもできるだろう。バリエーション紹介を楽しむことさえできるだろう。しかし、相手は予備知識を持たない子どもだ。
「まっさらな子ども」になったつもりで見てみよう。①問題提起←全然わからない。②解き方紹介←ほとんどわからない。③みんなで考える←まだまだわからない。④解き方教授←やっとわかってくる。⑤問題に挑戦←ついにわかる!
授業では五段階の段取りうち、最初の実に三段階までが、延々とわからないままで進んでいくのだ。つかみはオッケー!(古いか)の逆。子どもたちは、わからない話に退屈しないだろうか。わからない自分に不安を感じないだろうか。
自閉症児のジャスパーは、簡単に退屈するし不安になる。脱線しやすいし混乱してワケワカランになる。授業の第四段階、メインイベントの解法教授まで、たどり着くことができないのだ。そりゃあ授業が苦痛な訳だ。
自閉症の人はその特性から、日本語より英語の方が文法的に分かりやすく感じると言われる。私自身、「何が」の主語がどんなものかわからないまま色々な説明を受け、最後にやっと「どうだ」と述語を明かされる日本語より、「何が」「どうだ」と知らされてから、追加で説明される英語の方が、安心で、迷子になることなく、受け入れやすい気がする(もっと早く気付きたかった)。
さて、教科書の算数の教え方は、とても日本語的だ。問題から答えまでの距離が長い。ジャスパーの話では、学校には「塾でやったから、知ってまーす、できまーす」な子が、少なからずいるそうだ。段取りの②、③段階、解法バリエーション考察に参加できるのは、そんな子たちと、日本語的教授法に適応できる、一握りのいわゆる「地頭の良い」子たちなのではないだろうか。
日本語文法が苦手にできているジャスパーに、日本語的な教え方はキツイ。ここまで考えると、教科書に別れを告げることにためらいはなくなった。解法バリエーションでジャスパーを混乱させ、私を悩ませてくれた、あいさんに、たくみさんに、その他大勢のキャラクターの皆さんに、サヨナラ。
ジャスパーの脳の作りに合った教え方を探せ!そう、それこそが、自身も当事者であるママの使命。自分が枠にはまるのは、ムリ。それを知っているから、ジャスパーを枠にはめるのも、ナシ。
思い立ったら即実行した。主語(問題提起)の直後にすぐ述語(解法教授)。問題に取り組み、繰り返し、既知という名の安心感を作った上で、ゆとりがあれば、解法バリエーション考察。ヘリクツやコジツケ、混乱のもとになりそうな文章題は、ばっさり無視。
ビンゴ。話が早い。教える側も学ぶ側も面白い。ジャスパーの食い付きが良くなった。失っていた自信も取り戻しつつある。ジャスパーの口から「ママ、算数って面白いね!」という言葉さえ飛び出すようになった。
とはいえ、ジャスパーとの算数が難業苦行なのは変わらずだ。ぐるぐる、ぐるぐるの回り道。時々、二人で協力して乗り越える段差。
同じような景色を何度も見てきているけれど、それでもそれが、緩やかな螺旋階段になっていることに、最近気付いた。
だんだん、風通しが良くなってきた。だんだん、見晴らしが良くなってきた。
2016年6月18日土曜日
勉強ってなんだ
「ボク、勉強、キライ!」
ジャスパーが初めてこんなことを言ったのは、実は就学前。ジャスパーに『勉強』らしいことを全然させていなかったママは、とても驚いた。
「えっ、えっ、ジャスパー、『勉強』ってなんだか知ってるの?」「知らないよ、でも、キライなんだ」ジャスパーは澄まして答えた。「ええええ~」
テレビに、マンガに、ヨノナカにあふれているこのフレーズを、ジャスパーはどこからか聞いて丸覚えしてしまったのだろう。
「あのね、ジャスパー、『勉強』ってね、動物のテレビで見た、『学習』と、まあ、おんなじだよ」「ふうん?」「ネコが遊びから狩りを覚えたりするアレ、アレ」「ああ~」
「おサルさんが海の水でおイモを洗って食べたら、しょっぱくて美味しかったからいつもするようになった、っていうのも、それを見ていた仲間もマネをするようになった、っていうのも」「美味しそう~」
「うん、勉強するとね、上手になったり、美味しくなったり、ああ、そう、便利になるんだよ」「そうなのか~」「そうなのよ」
この日から、「勉強ってなんだ」に対するシンプルでわかりやすい答えを探すようになった。
他の答え。
「インプットして、アウトプットできるようになること」おお~、シンプルだ。シンプル過ぎてわかりにくいか。
「聞いたり読んだりして、分かったり覚えたりして、使えるようにすること」まあそうなんだけど、まだわかりにくいか。
結局、最初の教え方が一番通じたようだ。「便利にすること」。
計算ができないと不便。漢字が読めないと不便。だから、覚える。うん、そうだ。そういうことだ。
地理を知っていると、歴史を知っていると、テレビやドラマが面白い。映画も面白い。だから、覚える。そうだそうだ、「面白くすること」でもあるんだ。
実際、私の勉強は、楽しむためにすることがほとんどだ。不便克服も、「面白い」がベース。
感覚過敏で芳香剤や洗剤が使えないワタシ。ハーブも、重曹とクエン酸掃除術も、「おおお~」の瞬間が面白いから、勉強する。
好奇心旺盛なワタシ。ネットの海に漕ぎ出せば、英語の波で溺れる。「おおお~」とネットを面白くするために、英語の勉強もする。
勉強ってなんだ?
「不便さを減らして、面白さを増やすこと」
うん、そうだ、そうだ。勉強って、面白いんだ!
ジャスパー、勉強しよう!
ジャスパーが初めてこんなことを言ったのは、実は就学前。ジャスパーに『勉強』らしいことを全然させていなかったママは、とても驚いた。
「えっ、えっ、ジャスパー、『勉強』ってなんだか知ってるの?」「知らないよ、でも、キライなんだ」ジャスパーは澄まして答えた。「ええええ~」
テレビに、マンガに、ヨノナカにあふれているこのフレーズを、ジャスパーはどこからか聞いて丸覚えしてしまったのだろう。
「あのね、ジャスパー、『勉強』ってね、動物のテレビで見た、『学習』と、まあ、おんなじだよ」「ふうん?」「ネコが遊びから狩りを覚えたりするアレ、アレ」「ああ~」
「おサルさんが海の水でおイモを洗って食べたら、しょっぱくて美味しかったからいつもするようになった、っていうのも、それを見ていた仲間もマネをするようになった、っていうのも」「美味しそう~」
「うん、勉強するとね、上手になったり、美味しくなったり、ああ、そう、便利になるんだよ」「そうなのか~」「そうなのよ」
この日から、「勉強ってなんだ」に対するシンプルでわかりやすい答えを探すようになった。
他の答え。
「インプットして、アウトプットできるようになること」おお~、シンプルだ。シンプル過ぎてわかりにくいか。
「聞いたり読んだりして、分かったり覚えたりして、使えるようにすること」まあそうなんだけど、まだわかりにくいか。
結局、最初の教え方が一番通じたようだ。「便利にすること」。
計算ができないと不便。漢字が読めないと不便。だから、覚える。うん、そうだ。そういうことだ。
地理を知っていると、歴史を知っていると、テレビやドラマが面白い。映画も面白い。だから、覚える。そうだそうだ、「面白くすること」でもあるんだ。
実際、私の勉強は、楽しむためにすることがほとんどだ。不便克服も、「面白い」がベース。
感覚過敏で芳香剤や洗剤が使えないワタシ。ハーブも、重曹とクエン酸掃除術も、「おおお~」の瞬間が面白いから、勉強する。
好奇心旺盛なワタシ。ネットの海に漕ぎ出せば、英語の波で溺れる。「おおお~」とネットを面白くするために、英語の勉強もする。
勉強ってなんだ?
「不便さを減らして、面白さを増やすこと」
うん、そうだ、そうだ。勉強って、面白いんだ!
ジャスパー、勉強しよう!
2016年6月7日火曜日
ダンスは運動会の後に
運動会が終わった。やっと終わった。 我が家は小学校のすぐ近くにある。練習の声も音楽も、全部筒抜け。大人も子どもも、おつかれさま。
練習の間中、私はブログが書けなかった。ひとたびキーボードに向かえば、「運動会が嫌いだー、大嫌いだー!」と書いてしまいそうで、楽しく一生懸命頑張っている人達に申し訳ないような気がして、ずっと自粛していた。ああ、でも、ハハハ、書いちゃった。
運動会が好きな人には、練習も本番も、面白くて楽しいのだろう。そのお楽しみがなんと1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて楽しいんだろう。運動会、大好き!」となるのだろう。
けれど、運動会が嫌いな人には、練習も本番も、面白くも楽しくもない。辛く苦しいだけだ。その苦しみが延々と1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて辛いんだろう。運動会、大嫌い!」となる。
まあつまり、そういうこと。
私の息子、ジャスパーは身体が小さく動作も不器用だ。私もそうだったから仕方ない。という訳で、ジャスパーの運動会嫌いも、やっぱり仕方ない。行列は先頭、かけっこはビリ。とても目立つ。いじめられる。他の競技でも得点に貢献する活躍は当然ない。いじめられる。能力差が一目瞭然となる運動会は、実はいじめのターゲット選定会の側面を持っていると思う。それでも、アレよりはマシ。
アレとは、すなわち、ダンスのことだ。音楽センスも身体能力もバラバラの子どもたちに、なぜ「動きを揃える」ことを求めるのか。私は運動会のダンスが大嫌いだった。
ダンスが好きな子の踊りは素晴らしい。全身から踊る喜びが溢れ、熱が鼓動が、観客に伝わり、観客も喜びで満たされる。ダンスが好きな子だけ、踊りたい子だけ、踊れば良いではないか。その方が演る側、観る側、みんな幸せだ。
「チームワークを育むため」、とよく言われるが、果たして運動会のダンスで「チームワーク」が育つのだろうか。「チームワーク」を形成するものはリーダーシップと協調性、それを導く能力は、自主性、問題解決能力、創造力と想像力、だと思う。
運動会という一大プロジェクトでそれらの能力を育んだり発揮したりできるのは、子どもたちではなく、大人の先生たちだろう。
子どもたちの参加は最後の最後、「はい皆さんご一緒に」の部分だけだ。出来上がった台本のもと、プロジェクトの遂行だけを求められる。子どもの頃の私には、従うことしか許されない立場であるということを思い知らされる儀式にも思えた。
40年前、現役の小学生だった私は運動会のダンスの練習でしぶしぶ踊って先生に叱られた。もっと楽しそうに、と指導された。「元気の出ないロージーちゃんを励まして」と先生から言われた級友たちに取り囲まれ、エールやらアドバイスやらヨイショやらを受けた。学校へ行くのがイヤになった。
ニコニコして踊ってあげない限り、先生に叱られてあげなければならないし、級友から励まされてあげなければならない。こう悟ったロージーちゃんは自分の心を殺すことにした。ニコニコして踊った。みんな、喜んだ。私の心の死を、みんなに喜ばれ、拍手までされてしまった。
学校全体で楽しむはずの運動会。どうしてほとんど全てのプログラムが「全員参加」なんだろう。リレーの選抜があるなら、ダンスも騎馬戦も徒競走も、「その競技を楽しめる人だけ参加」方式でも構わないはずだ。
適材適所を見極め、どの競技に誰が参加するかをクラス全員で知恵を尽くして考えることこそが、本当のチームワークと言えないだろうか。
学校の運動会の意義が「みんなで参加すること」から「みんなで楽しむこと」に変わっていくことを切に願う。
運動会が終わって、心底ホッとした。ジャスパーと喜んだ。びじゅチューンの「ルソ~~~♪ファイブ♪」を二人で踊った。宇宙兄弟の「あがって~♪のぼって~♪そら~をつらぬいて~♪」も踊った。私もジャスパーも、好きな踊りなら、いくらでも踊る。
練習の間中、私はブログが書けなかった。ひとたびキーボードに向かえば、「運動会が嫌いだー、大嫌いだー!」と書いてしまいそうで、楽しく一生懸命頑張っている人達に申し訳ないような気がして、ずっと自粛していた。ああ、でも、ハハハ、書いちゃった。
運動会が好きな人には、練習も本番も、面白くて楽しいのだろう。そのお楽しみがなんと1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて楽しいんだろう。運動会、大好き!」となるのだろう。
けれど、運動会が嫌いな人には、練習も本番も、面白くも楽しくもない。辛く苦しいだけだ。その苦しみが延々と1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて辛いんだろう。運動会、大嫌い!」となる。
まあつまり、そういうこと。
私の息子、ジャスパーは身体が小さく動作も不器用だ。私もそうだったから仕方ない。という訳で、ジャスパーの運動会嫌いも、やっぱり仕方ない。行列は先頭、かけっこはビリ。とても目立つ。いじめられる。他の競技でも得点に貢献する活躍は当然ない。いじめられる。能力差が一目瞭然となる運動会は、実はいじめのターゲット選定会の側面を持っていると思う。それでも、アレよりはマシ。
アレとは、すなわち、ダンスのことだ。音楽センスも身体能力もバラバラの子どもたちに、なぜ「動きを揃える」ことを求めるのか。私は運動会のダンスが大嫌いだった。
ダンスが好きな子の踊りは素晴らしい。全身から踊る喜びが溢れ、熱が鼓動が、観客に伝わり、観客も喜びで満たされる。ダンスが好きな子だけ、踊りたい子だけ、踊れば良いではないか。その方が演る側、観る側、みんな幸せだ。
「チームワークを育むため」、とよく言われるが、果たして運動会のダンスで「チームワーク」が育つのだろうか。「チームワーク」を形成するものはリーダーシップと協調性、それを導く能力は、自主性、問題解決能力、創造力と想像力、だと思う。
運動会という一大プロジェクトでそれらの能力を育んだり発揮したりできるのは、子どもたちではなく、大人の先生たちだろう。
子どもたちの参加は最後の最後、「はい皆さんご一緒に」の部分だけだ。出来上がった台本のもと、プロジェクトの遂行だけを求められる。子どもの頃の私には、従うことしか許されない立場であるということを思い知らされる儀式にも思えた。
40年前、現役の小学生だった私は運動会のダンスの練習でしぶしぶ踊って先生に叱られた。もっと楽しそうに、と指導された。「元気の出ないロージーちゃんを励まして」と先生から言われた級友たちに取り囲まれ、エールやらアドバイスやらヨイショやらを受けた。学校へ行くのがイヤになった。
ニコニコして踊ってあげない限り、先生に叱られてあげなければならないし、級友から励まされてあげなければならない。こう悟ったロージーちゃんは自分の心を殺すことにした。ニコニコして踊った。みんな、喜んだ。私の心の死を、みんなに喜ばれ、拍手までされてしまった。
学校全体で楽しむはずの運動会。どうしてほとんど全てのプログラムが「全員参加」なんだろう。リレーの選抜があるなら、ダンスも騎馬戦も徒競走も、「その競技を楽しめる人だけ参加」方式でも構わないはずだ。
適材適所を見極め、どの競技に誰が参加するかをクラス全員で知恵を尽くして考えることこそが、本当のチームワークと言えないだろうか。
学校の運動会の意義が「みんなで参加すること」から「みんなで楽しむこと」に変わっていくことを切に願う。
運動会が終わって、心底ホッとした。ジャスパーと喜んだ。びじゅチューンの「ルソ~~~♪ファイブ♪」を二人で踊った。宇宙兄弟の「あがって~♪のぼって~♪そら~をつらぬいて~♪」も踊った。私もジャスパーも、好きな踊りなら、いくらでも踊る。
2016年5月19日木曜日
学校遺伝子
学校に合わないジャスパー。小・中・高と学校に合わなかった私。
私が小学生だったのは、はるか40年も前のことなのに、学校はあまり変わっていない。コドモがオバサンになるほどに、時が経っているのに。汚れてしまった川にカワセミが戻って来るほどに、行政も企業も人の意識も変わっているのに。これはどうしたことだろう。
考えてみれば、ああ、そうだ!
先生になる人は、子ども時代、学校に合って、学校が楽しかった人たちだろう。学校っていいな、友達っていいな、先生好きだな、先生みたいになりたいな、私も先生になろう!というのが自然な流れだろう。学校に不満を抱え、疑問を持ちながら卒業し、学校に革命を起こすべく教師として着任!という人は、おそらく皆無だろう。
「学校遺伝子」とでも言えるようなものが存在しているかのようだ。「学校」が子どもを、教師を選び、その体質を維持しようとする。だから「学校」は変わらない。変えたい人は、中にはいない。良くしよう、と思うことはあっても、変えないことが、大前提だろう。「学校」に変わってくださいと言うのは、無理、無駄、ともすれば、学校遺伝子継承者の心を傷つけかねない。
このことに気付いてから、漠然とした「ホームスクールで行こうかな…」は、明快な「ホームスクールで行きましょう!」に変わった。
Win -Win の関係でいたい相手なら、合わないなりに大切にしたい相手なら、距離を置くことがベストだろう。
「学校」と良い距離を保たせてくれているジャスパーの学校の先生たちに感謝している。
距離を理解してくれる先生が増えるといいな、と思う。
私が小学生だったのは、はるか40年も前のことなのに、学校はあまり変わっていない。コドモがオバサンになるほどに、時が経っているのに。汚れてしまった川にカワセミが戻って来るほどに、行政も企業も人の意識も変わっているのに。これはどうしたことだろう。
考えてみれば、ああ、そうだ!
先生になる人は、子ども時代、学校に合って、学校が楽しかった人たちだろう。学校っていいな、友達っていいな、先生好きだな、先生みたいになりたいな、私も先生になろう!というのが自然な流れだろう。学校に不満を抱え、疑問を持ちながら卒業し、学校に革命を起こすべく教師として着任!という人は、おそらく皆無だろう。
「学校遺伝子」とでも言えるようなものが存在しているかのようだ。「学校」が子どもを、教師を選び、その体質を維持しようとする。だから「学校」は変わらない。変えたい人は、中にはいない。良くしよう、と思うことはあっても、変えないことが、大前提だろう。「学校」に変わってくださいと言うのは、無理、無駄、ともすれば、学校遺伝子継承者の心を傷つけかねない。
このことに気付いてから、漠然とした「ホームスクールで行こうかな…」は、明快な「ホームスクールで行きましょう!」に変わった。
Win -Win の関係でいたい相手なら、合わないなりに大切にしたい相手なら、距離を置くことがベストだろう。
「学校」と良い距離を保たせてくれているジャスパーの学校の先生たちに感謝している。
距離を理解してくれる先生が増えるといいな、と思う。
学校とカレーライス
カレーライスが嫌い、という子がいた。アレルギーでもないのに、ただ苦手。周囲からとても珍しがられて、大変そうだった。
美味しいよ、と勧められ、断れば変な子と言われ、どうして美味しいと思えないの、と詰め寄られ、こんなに美味しいのに!と怒られ、どうして食べてくれないの、と泣かれていた。
大変そうだなあと思った。
学校に合わない子どもも、珍しい存在だろう。同じような経過を辿る。
うん、まあ、大変。
少数派は、いつも、大変。
美味しいよ、と勧められ、断れば変な子と言われ、どうして美味しいと思えないの、と詰め寄られ、こんなに美味しいのに!と怒られ、どうして食べてくれないの、と泣かれていた。
大変そうだなあと思った。
学校に合わない子どもも、珍しい存在だろう。同じような経過を辿る。
うん、まあ、大変。
少数派は、いつも、大変。
2016年5月7日土曜日
定型外発達
「定型発達・非定型発達」、と言われるが、当事者の母であり、ズバリ当事者でもある私はこれを「定型発達・定型外発達」と言いたい。郵便みたいで、カワイイでしょ。どっちも扱ってもらえるけど、定型外は、手間とお金が定型よりちょっと余分にかかる、っていうところも似ているし。
「定型・非定型」という言葉を知るずっと前、私がデザイン学校に通い出してから、そして社会に出てからヒトビトに感じた分類は、「アート系・非アート系」だった 。
小・中・高と「普通の子」たちから「変な子」と言われ続けてきたのに、デザイン学校に入ってみたら、自分はとても「普通」だったのだ。これは驚きだった。私が通ったのは大手のデザイン学校で、無試験で入ることができたせいか、入学当初はいわゆる「普通」の「非アート系」の子もちらほら混ざっていた。
多数派の「アート系」の子に囲まれる学校生活は、それまでずっと多数派に属していた「非アート系」の子には苦痛だったと思う。言葉が通じない、空気が読めない世界。大量に出される課題のせいもあってか、初めての夏休みが終わると学校には「アート系」ばかりが残り、学年から実に数クラスが消失していた。
多数派の中に少数派として存在することは、誰にとっても大変なことなのだ、ということを経験し、目撃して、実感した。ああ、なあんだ、そういうこと。ヒトのヨノナカにも「棲み分け」があるんだ。それぞれに「居場所」はあるんだ。
学校を卒業し、いくつか職を変えた。すごく合うものも全く合わないものもあった。やっぱり、棲み分けなんだ、じゃあ、コレだ、とイラストレーターの仕事を始めてみると、とても楽しく居心地が良かった。そして、自分の「変さ」は仕事に必要不可欠なものであったことも知った。
モノ作りの世界ではそれは「変」とは言われず、「個性」と呼ばれ、尊重される。アート系の勝負どころは、鋭敏な五感。感受性。過敏と言われ、疎まれてきた、自閉の特性そのものだ。アートを仕事として〆切を全うするには、過集中さえもが、大切な特性だった。
こんな風にヨノナカを見てきているので、ロージーママは息子のジャスパーが学校に合わなくても、不思議には思わない。
ジャスパーが自分の棲み分け適正地を見つけ、そこに無事に着地できるように、サポートできれば、いや、しよう、と思っている。
「定型・非定型」という言葉を知るずっと前、私がデザイン学校に通い出してから、そして社会に出てからヒトビトに感じた分類は、「アート系・非アート系」だった 。
小・中・高と「普通の子」たちから「変な子」と言われ続けてきたのに、デザイン学校に入ってみたら、自分はとても「普通」だったのだ。これは驚きだった。私が通ったのは大手のデザイン学校で、無試験で入ることができたせいか、入学当初はいわゆる「普通」の「非アート系」の子もちらほら混ざっていた。
多数派の「アート系」の子に囲まれる学校生活は、それまでずっと多数派に属していた「非アート系」の子には苦痛だったと思う。言葉が通じない、空気が読めない世界。大量に出される課題のせいもあってか、初めての夏休みが終わると学校には「アート系」ばかりが残り、学年から実に数クラスが消失していた。
多数派の中に少数派として存在することは、誰にとっても大変なことなのだ、ということを経験し、目撃して、実感した。ああ、なあんだ、そういうこと。ヒトのヨノナカにも「棲み分け」があるんだ。それぞれに「居場所」はあるんだ。
学校を卒業し、いくつか職を変えた。すごく合うものも全く合わないものもあった。やっぱり、棲み分けなんだ、じゃあ、コレだ、とイラストレーターの仕事を始めてみると、とても楽しく居心地が良かった。そして、自分の「変さ」は仕事に必要不可欠なものであったことも知った。
モノ作りの世界ではそれは「変」とは言われず、「個性」と呼ばれ、尊重される。アート系の勝負どころは、鋭敏な五感。感受性。過敏と言われ、疎まれてきた、自閉の特性そのものだ。アートを仕事として〆切を全うするには、過集中さえもが、大切な特性だった。
こんな風にヨノナカを見てきているので、ロージーママは息子のジャスパーが学校に合わなくても、不思議には思わない。
ジャスパーが自分の棲み分け適正地を見つけ、そこに無事に着地できるように、サポートできれば、いや、しよう、と思っている。
2016年4月29日金曜日
ホームスクール、今年のやり方:生活編
ホームスクールを始めた頃。生活はボロボロだった。母子ともに、心身ともに疲れていた。まず最初の課題は、とにもかくにも、眠れるようになることだった。
うちには二匹の猫がいる。ジャスパーのお姉ちゃんと妹だ。いつも心の支えになってくれる頼もしい存在なのだけれど、この時はふたりの力だけでは足りず、動物園に通った。
ジャスパーはキリンにもライオンにも、レッサーパンダにも目もくれず、いつもふれあいコーナーに直行した。閉門までずうっと、動物を抱っこして、じっと座って過ごした。ひよこ、ネズミ、モルモットから始まり、通っているうちに大きなニワトリも抱っこできるようになった。
その頃にはふれあいを早めに切り上げて他の動物たちにも会えるようになった。ジャスパーのお気に入りはペンギン。写真を撮ったり、飼育員さんとお話したり。ずっと三白眼になっていたジャスパーの黒目が本来の大きさに戻り、キラキラするようになった。夜、良く眠れるようになった。
体調が落ち着いてくると、次の課題が待っていた。ジャスパーの「ぼくは学校に行っていない」「みんなは学校で頑張っているのに」という、罪悪感、焦燥感ケア。ママと二人で勉強はしているのに、なんとなく居心地が悪い。とにかくやろう、頑張ろう。ちゃんと頑張っていれば、胸を張っていられるでしょう?
そうこうしているうちにママの体調不良がぶり返した。お出かけ疲れと溜まった家事に、ジャスパーの教師役の仕事が加わり、あえなくダウン。ママは元気になったジャスパーの隣で寝込む羽目となった。寝込むとまた家事が溜まる。溜まった家事を片付けると、疲れてまた寝込む。冬場の風邪でお馴染みの負のスパイラルに陥ってしまった。
カラダは動かせなくても、アタマは動かせる。布団の中でママは考えた。お題はジャスパーの罪悪感、焦燥感の払拭と、ママの親業と教師業の両立の二点。
自分が完璧主義に陥りやすいことについては自覚がある。それでいつもやり過ぎる。あちらを立ててこちらを転ばせてはダメなのだ。仕事の量と時間を減らさなければ。目指せ効率アップ。目指せ、ウィンウィンシチュエーション。一事が万事を、一石二鳥に。
まずはジャスパーに通達。
「いつも家事のお手伝いありがとう。さて、ホームスクールを始めて、ママは君の勉強を"手伝う"ことが"仕事"になりました。家事の時間が足りません。これからは君も家事を"手伝う"のではなく自分の"仕事"として頑張ってください」「え~~~」
そして、ここで一石二鳥。
「家事の時間は"家庭科"とカウントします。君の自由時間を奪うものではありません」「それならいい!ぼく頑張るね!」よーし、ウィンウィン。
ジャスパーの「自分は頑張りが足りないのではないか」という罪悪感と焦燥感の払拭についても、一石二鳥でいくことにした。
日常生活を項目分けして、内容をいちいちジャスパーに発表するのだ。まあ、それだけ。スーパーに買い出しに行けば、往復の歩き、荷物運びは"体育"、商品を見れば材料は"理科"、生産、流通、スーパー自体の仕組みは"社会"。ほーら、いっぱい学習できちゃったよ。すごいねえ。
こんな風に考えると、鳥を見たり植物遊びのために出かける公園散歩も、しっかり歩けば"体育"、図鑑持参なら"理科"、地図持参なら"社会"、絵を描いたり、植物遊びをしたら"図工"と"理科"だ。
たとえママが寝込んでいても、録画したドキュメンタリー番組を一緒に見れば、"理科"、"社会"。本はたとえ漫画であっても"国語"だし、その内容は"理科"、"社会"と"道徳"はもちろん、"家庭科"に分類できるものもある。映画を見れば、"音楽"、字幕で見れば"英語"まで学べる。
教えている、学んでいる、という自覚が双方にあれば、生活全部がちゃーんと学習だ。毎日が生まれて初めての連続である子どもからしてみれば、そりゃ、そうなのだ。
だんだん色々わかってきて、ママは国語と理科と社会は教科書で"教える"ことをしなくなった。わざわざ時間を作らなくていい。日常生活で学びまくっていることを知ったジャスパーも、だんだん焦らなくなってきた。
頃合いを見ていきなりテスト用紙を渡す。ジャスパーがすでに知っていることが結構ある。全部を知っていなくてもいい。そこで教科書を開けば、"調べ物学習"ができる。最近ではジャスパーも調べ物のコツが分かってきたようで、採点後の復習もぐんと減った。
一石二鳥。親ラク子ラク。合言葉は、ウィンウィン。
心のリハビリから始まった我が家のホームスクール生活。慣れてきた今年は、こんな風。
うちには二匹の猫がいる。ジャスパーのお姉ちゃんと妹だ。いつも心の支えになってくれる頼もしい存在なのだけれど、この時はふたりの力だけでは足りず、動物園に通った。
ジャスパーはキリンにもライオンにも、レッサーパンダにも目もくれず、いつもふれあいコーナーに直行した。閉門までずうっと、動物を抱っこして、じっと座って過ごした。ひよこ、ネズミ、モルモットから始まり、通っているうちに大きなニワトリも抱っこできるようになった。
その頃にはふれあいを早めに切り上げて他の動物たちにも会えるようになった。ジャスパーのお気に入りはペンギン。写真を撮ったり、飼育員さんとお話したり。ずっと三白眼になっていたジャスパーの黒目が本来の大きさに戻り、キラキラするようになった。夜、良く眠れるようになった。
体調が落ち着いてくると、次の課題が待っていた。ジャスパーの「ぼくは学校に行っていない」「みんなは学校で頑張っているのに」という、罪悪感、焦燥感ケア。ママと二人で勉強はしているのに、なんとなく居心地が悪い。とにかくやろう、頑張ろう。ちゃんと頑張っていれば、胸を張っていられるでしょう?
そうこうしているうちにママの体調不良がぶり返した。お出かけ疲れと溜まった家事に、ジャスパーの教師役の仕事が加わり、あえなくダウン。ママは元気になったジャスパーの隣で寝込む羽目となった。寝込むとまた家事が溜まる。溜まった家事を片付けると、疲れてまた寝込む。冬場の風邪でお馴染みの負のスパイラルに陥ってしまった。
カラダは動かせなくても、アタマは動かせる。布団の中でママは考えた。お題はジャスパーの罪悪感、焦燥感の払拭と、ママの親業と教師業の両立の二点。
自分が完璧主義に陥りやすいことについては自覚がある。それでいつもやり過ぎる。あちらを立ててこちらを転ばせてはダメなのだ。仕事の量と時間を減らさなければ。目指せ効率アップ。目指せ、ウィンウィンシチュエーション。一事が万事を、一石二鳥に。
まずはジャスパーに通達。
「いつも家事のお手伝いありがとう。さて、ホームスクールを始めて、ママは君の勉強を"手伝う"ことが"仕事"になりました。家事の時間が足りません。これからは君も家事を"手伝う"のではなく自分の"仕事"として頑張ってください」「え~~~」
そして、ここで一石二鳥。
「家事の時間は"家庭科"とカウントします。君の自由時間を奪うものではありません」「それならいい!ぼく頑張るね!」よーし、ウィンウィン。
ジャスパーの「自分は頑張りが足りないのではないか」という罪悪感と焦燥感の払拭についても、一石二鳥でいくことにした。
日常生活を項目分けして、内容をいちいちジャスパーに発表するのだ。まあ、それだけ。スーパーに買い出しに行けば、往復の歩き、荷物運びは"体育"、商品を見れば材料は"理科"、生産、流通、スーパー自体の仕組みは"社会"。ほーら、いっぱい学習できちゃったよ。すごいねえ。
こんな風に考えると、鳥を見たり植物遊びのために出かける公園散歩も、しっかり歩けば"体育"、図鑑持参なら"理科"、地図持参なら"社会"、絵を描いたり、植物遊びをしたら"図工"と"理科"だ。
たとえママが寝込んでいても、録画したドキュメンタリー番組を一緒に見れば、"理科"、"社会"。本はたとえ漫画であっても"国語"だし、その内容は"理科"、"社会"と"道徳"はもちろん、"家庭科"に分類できるものもある。映画を見れば、"音楽"、字幕で見れば"英語"まで学べる。
教えている、学んでいる、という自覚が双方にあれば、生活全部がちゃーんと学習だ。毎日が生まれて初めての連続である子どもからしてみれば、そりゃ、そうなのだ。
だんだん色々わかってきて、ママは国語と理科と社会は教科書で"教える"ことをしなくなった。わざわざ時間を作らなくていい。日常生活で学びまくっていることを知ったジャスパーも、だんだん焦らなくなってきた。
頃合いを見ていきなりテスト用紙を渡す。ジャスパーがすでに知っていることが結構ある。全部を知っていなくてもいい。そこで教科書を開けば、"調べ物学習"ができる。最近ではジャスパーも調べ物のコツが分かってきたようで、採点後の復習もぐんと減った。
一石二鳥。親ラク子ラク。合言葉は、ウィンウィン。
心のリハビリから始まった我が家のホームスクール生活。慣れてきた今年は、こんな風。
2016年4月22日金曜日
ホームスクール、今年のやり方:学習編
高機能自閉症、学習障害疑いアリのジャスパー。学習は一筋縄ではいかない。なかなか解らない、なかなか覚えない、しばしば混乱する、あっさり忘れる。とにかく大ッ変!に時間がかかる。
学校式の基本の学び方、教科書、ノートで授業→プリント、ドリル等で練習→区切りごとにテスト→できなかったところは補習、というやり方を家庭でしていては、とても追い付かない。
なぜ断言できるのかといえば、もちろん、試したことがあるからだ。
ジャスパーに時間をかけ過ぎて、ママの時間はジャスパーの就寝後に限られた。結局、夜更かしのし過ぎでダウン、というのを何度か繰り返してしまった。
もともとあまり丈夫ではないママ。時短の工夫が急務だった。そもそも発達に凸凹のあるジャスパーに、定型発達向けのまんべんなく教えるスタイルには、ムリがあるし、ムダもある。
よくよく考えてみた。各教科の学習には単元という小刻みなスタートとゴールがある。ゴールを目指して進む。旅の目的はゴール。要するにゴールできれば良い訳だ。ゴールってどこだ。そうだ、ドリルだ、テストだ。
ドリルとテストは見方を変えれば、学習のゴールとして設定されているポイントの一覧とも言える。学校採用のドリルと業者テストに大きなぬかりがあるとは考えにくい。これを学習の柱に、教科書は参考資料として使うことにした。
やってみると具合がいい。得意科目で余った時間を苦手科目に回す。まんべんなく教わって凸凹にしかわからないより、凸凹に教わってまんべんなくわかる方がいい。
実際にはまんべんなくわかる、というのは難しく、激しい凸凹の凹を多少なだらかにする程度だ。けれど、ジャスパーが陥りやすい「オレはダメだ」の軽減にはなる。ママはジャスパーの心に「オレは大丈夫」を根付かせ、育てたい。
4、5年生の間に試行錯誤して編み出したジャスパー向けの今年の学習法は、こんなふうだ。
算数
ジャスパーの苦手科目。ママとドリルで学習、仕上げに一人で業者テスト。チェック後、ママとドリルで復習。教科書はジャスパーの混乱のもと、ゆみさんやたくみさん、かおりさん等のキャラクターがゾロゾロと登場するので、ほとんど開かない。
国語
本、雑誌、マンガを一人で読む。音読は気に入っているものをママに読み聞かせ。物語を熱演したり、ジュニアエラをニュース風に読んだり。時間がかかり、どんどん忘れる漢字は、陰山式のドリルでママが作ったプリントとDSで、毎日欠かさず繰り返し学習。厳しいママチェック。時々業者テスト。問題文が面白かった時は教科書も読んでみる。
理科・社会
ジャスパーの得意科目。テレビでニュース、ドキュメンタリー、ドラマ、映画等、二人で視聴。歴史、地理、政治、経済、物理、化学、生物、地学等、ほとんど何でも学べる。合間にママの小ネタを披露。業者テストは一人で教科書、資料集を使って調べ物学習。ママチェック後、図鑑やネットを一緒に調べてみることも。
道徳
テレビでドラマ、映画を二人で視聴。「この人、今どんな気持ちかな」「優しいウソってあるよね」「こんな時、どうすればいいと思う?」と、おしゃべりしながらソーシャルスキルトレーニング。「今の、意味わかった?」言葉を文字通りとらえる自閉っ子が弱いとされる慣用表現を状況や前後の文脈から推し量る練習(国語)も同時に。
体育
毎日歩数計携帯。公園散歩。
こう書いてみると、「一人で」学習する時間をひねり出すのが無理のないホームスクールのコツかもしれない。いや、普通の6年生なら、チャレンジやドラゼミ、スマイルゼミ等の通信教育を使えば一人で勉強できるのだろうか。
二人暮らし、24時間ずーっと二人きり、生活編は、また今度。家庭科はこちらで毎日、体当たり実践学習中。
学校式の基本の学び方、教科書、ノートで授業→プリント、ドリル等で練習→区切りごとにテスト→できなかったところは補習、というやり方を家庭でしていては、とても追い付かない。
なぜ断言できるのかといえば、もちろん、試したことがあるからだ。
ジャスパーに時間をかけ過ぎて、ママの時間はジャスパーの就寝後に限られた。結局、夜更かしのし過ぎでダウン、というのを何度か繰り返してしまった。
もともとあまり丈夫ではないママ。時短の工夫が急務だった。そもそも発達に凸凹のあるジャスパーに、定型発達向けのまんべんなく教えるスタイルには、ムリがあるし、ムダもある。
よくよく考えてみた。各教科の学習には単元という小刻みなスタートとゴールがある。ゴールを目指して進む。旅の目的はゴール。要するにゴールできれば良い訳だ。ゴールってどこだ。そうだ、ドリルだ、テストだ。
ドリルとテストは見方を変えれば、学習のゴールとして設定されているポイントの一覧とも言える。学校採用のドリルと業者テストに大きなぬかりがあるとは考えにくい。これを学習の柱に、教科書は参考資料として使うことにした。
やってみると具合がいい。得意科目で余った時間を苦手科目に回す。まんべんなく教わって凸凹にしかわからないより、凸凹に教わってまんべんなくわかる方がいい。
実際にはまんべんなくわかる、というのは難しく、激しい凸凹の凹を多少なだらかにする程度だ。けれど、ジャスパーが陥りやすい「オレはダメだ」の軽減にはなる。ママはジャスパーの心に「オレは大丈夫」を根付かせ、育てたい。
4、5年生の間に試行錯誤して編み出したジャスパー向けの今年の学習法は、こんなふうだ。
算数
ジャスパーの苦手科目。ママとドリルで学習、仕上げに一人で業者テスト。チェック後、ママとドリルで復習。教科書はジャスパーの混乱のもと、ゆみさんやたくみさん、かおりさん等のキャラクターがゾロゾロと登場するので、ほとんど開かない。
国語
本、雑誌、マンガを一人で読む。音読は気に入っているものをママに読み聞かせ。物語を熱演したり、ジュニアエラをニュース風に読んだり。時間がかかり、どんどん忘れる漢字は、陰山式のドリルでママが作ったプリントとDSで、毎日欠かさず繰り返し学習。厳しいママチェック。時々業者テスト。問題文が面白かった時は教科書も読んでみる。
理科・社会
ジャスパーの得意科目。テレビでニュース、ドキュメンタリー、ドラマ、映画等、二人で視聴。歴史、地理、政治、経済、物理、化学、生物、地学等、ほとんど何でも学べる。合間にママの小ネタを披露。業者テストは一人で教科書、資料集を使って調べ物学習。ママチェック後、図鑑やネットを一緒に調べてみることも。
道徳
テレビでドラマ、映画を二人で視聴。「この人、今どんな気持ちかな」「優しいウソってあるよね」「こんな時、どうすればいいと思う?」と、おしゃべりしながらソーシャルスキルトレーニング。「今の、意味わかった?」言葉を文字通りとらえる自閉っ子が弱いとされる慣用表現を状況や前後の文脈から推し量る練習(国語)も同時に。
体育
毎日歩数計携帯。公園散歩。
こう書いてみると、「一人で」学習する時間をひねり出すのが無理のないホームスクールのコツかもしれない。いや、普通の6年生なら、チャレンジやドラゼミ、スマイルゼミ等の通信教育を使えば一人で勉強できるのだろうか。
二人暮らし、24時間ずーっと二人きり、生活編は、また今度。家庭科はこちらで毎日、体当たり実践学習中。
2016年4月20日水曜日
「ホームスクール」を選ぶまで
試行錯誤を重ねて重ねて、ようやく落ち着いてきた、ジャスパーとママのホームスクール生活。ジャスパーが不登校気味になったばかりの3年生の頃は、この言葉さえ知らなかった。
フリースクールという言葉はなんとなく知っていた。学校の代わりに行くところ、くらいに思っていた。調べてみると、素敵なフリースクールはたくさんあった。ジャスパーに合いそうなところが、こんなにある!ワクワクしてさらに調べると、「素敵」にはお金がかかることを思い知らされた。
そしてある日。フリースクールを調べているうちに、ホームスクールという言葉に出会った。えっ、おうちで教えるの?私、いつも教えてるわよ。
ジャスパーの登校渋りは五月雨登校になり、別室登校になった。同伴登校の頃には親子共に疲労困憊、二人で体調を崩した。仕舞いにはなんと、母親の私にも登校拒否の身体症状が出始めた。
このままじゃダメだ…。家で教えよう。ホームスクールをやろう…。学校とジャスパーに相談をした。「学校と連携を取りながら」スタイルでいくことになった。
と、ここまでに、実に二年近くもかけてしまった。ごめんね、ジャスパー。長かったね。その間に、ママ、色々見たよ、感じたよ。学んだよ、わかったよ。
ママの一番大事な仕事は、子どもを「学校に行かせる」ことじゃない。まずは、子どもを「安心させる」ことだ。いっぱい笑えるように、美味しく食べられるように、夜良く眠れるように…。
さてさて、本当に教えられるのか。うん、まあ、いける。大丈夫。小学生の頃はなぞなぞ博士、中高生の頃は雑学マニアだった、という大昔のキャリアに基づく謎の自信を拠り所に、ロージー先生は誕生した。
フリースクールという言葉はなんとなく知っていた。学校の代わりに行くところ、くらいに思っていた。調べてみると、素敵なフリースクールはたくさんあった。ジャスパーに合いそうなところが、こんなにある!ワクワクしてさらに調べると、「素敵」にはお金がかかることを思い知らされた。
そしてある日。フリースクールを調べているうちに、ホームスクールという言葉に出会った。えっ、おうちで教えるの?私、いつも教えてるわよ。
ジャスパーの登校渋りは五月雨登校になり、別室登校になった。同伴登校の頃には親子共に疲労困憊、二人で体調を崩した。仕舞いにはなんと、母親の私にも登校拒否の身体症状が出始めた。
このままじゃダメだ…。家で教えよう。ホームスクールをやろう…。学校とジャスパーに相談をした。「学校と連携を取りながら」スタイルでいくことになった。
と、ここまでに、実に二年近くもかけてしまった。ごめんね、ジャスパー。長かったね。その間に、ママ、色々見たよ、感じたよ。学んだよ、わかったよ。
ママの一番大事な仕事は、子どもを「学校に行かせる」ことじゃない。まずは、子どもを「安心させる」ことだ。いっぱい笑えるように、美味しく食べられるように、夜良く眠れるように…。
さてさて、本当に教えられるのか。うん、まあ、いける。大丈夫。小学生の頃はなぞなぞ博士、中高生の頃は雑学マニアだった、という大昔のキャリアに基づく謎の自信を拠り所に、ロージー先生は誕生した。
2016年4月19日火曜日
ホームティーチャー・R
本格的にホームスクールを始める前、ジャスパー入学直後から、私は彼のホームティーチャーをしている。独特な学び方をするジャスパーは、学校の教え方についていけなかったのだ。
まず、板書ができない。黒板とノートの往復、という視点の切り替え。見て書く、という目と手の連動。あちらを立てればこちらが立たず。二つのことを同時に、というのが、一つのことに没頭しやすいジャスパーには、とても難しい。
1、2年生の時は担任の先生にお願いして、書き込み式の板書支援プリントを作っていただき、授業中は加配の先生にも大変にお世話になって、授業にはギリギリで食らいついていた。問題は宿題だった。
普通の子なら30分~1時間位でできそうな宿題に、ママがつきっきりで、3、4時間かかることはザラだった。ジャスパーの宿題を見ていると、彼が授業中にどのような「お客さん」であったのかが手に取るようにわかった。
幼稚園の頃から、ジャスパーの自己肯定感はへろへろだった。小さい体、ぎこちない動作。何をするのも遅い。笑い出しても泣き出しても、怒りだしても止まらなくなる。パニックを起こす。どうしても目立つ。「ターゲット」にされやすい。
この上、勉強についていけなくなったら、「ボクは、ダメだ」の上塗りだ。それだけは避けたかったママは頑張った。ジャスパーも頑張った。文字通り涙を流し、歯を食いしばって、二人で頑張った。
小学校最終学年、6年生の今年。ホームスクールのやり方もわかってきて、親子ともに自信を持って自宅学習でいきます、と学校の先生たちに宣言した。都度もらっていた業者のテストも今年はどっさりまとめてもらったので、見通しが立てやすい。うん、いいぞいいぞ、いける。
さっさと勉強を済ませて、今年は博物館に通おう、今年で最後になるから、ふれあい動物園のポニー(小学生以下限定)にもいっぱい乗りに行こう、とお楽しみの相談をする余裕さえある。今年は方針設定やスケジュール調整、対策ひねり出しにエネルギーを奪われる心配がない、と思うと、心が晴れやかだ。
そして今日。じゃあ、これ、軽~くいってみようか、と、学年最初の主要4教科テストのうち、得意な方の国語と理科に、きっちり制限時間を計って挑戦させてみた。全部教えた覚えのあることばかり。楽勝、楽勝。
ところが結果は惨敗。両方とも60点も取れなかった。オウ、マイ、ジャスパー。君は自分の興味のないことは、すっぽりすっぽり、どんどんじゃんじゃん忘れてしまうことをママはすっかり忘れていたよ。
明日のテストは算数と社会。
うーん、明後日から、頑張ろうか。ね。
4/22追記
社会はヨシヨシ、算数はアラアラでした。点数差は実に3倍以上。こちらはまあ、想定内。良く頑張りました。
まず、板書ができない。黒板とノートの往復、という視点の切り替え。見て書く、という目と手の連動。あちらを立てればこちらが立たず。二つのことを同時に、というのが、一つのことに没頭しやすいジャスパーには、とても難しい。
1、2年生の時は担任の先生にお願いして、書き込み式の板書支援プリントを作っていただき、授業中は加配の先生にも大変にお世話になって、授業にはギリギリで食らいついていた。問題は宿題だった。
普通の子なら30分~1時間位でできそうな宿題に、ママがつきっきりで、3、4時間かかることはザラだった。ジャスパーの宿題を見ていると、彼が授業中にどのような「お客さん」であったのかが手に取るようにわかった。
幼稚園の頃から、ジャスパーの自己肯定感はへろへろだった。小さい体、ぎこちない動作。何をするのも遅い。笑い出しても泣き出しても、怒りだしても止まらなくなる。パニックを起こす。どうしても目立つ。「ターゲット」にされやすい。
この上、勉強についていけなくなったら、「ボクは、ダメだ」の上塗りだ。それだけは避けたかったママは頑張った。ジャスパーも頑張った。文字通り涙を流し、歯を食いしばって、二人で頑張った。
小学校最終学年、6年生の今年。ホームスクールのやり方もわかってきて、親子ともに自信を持って自宅学習でいきます、と学校の先生たちに宣言した。都度もらっていた業者のテストも今年はどっさりまとめてもらったので、見通しが立てやすい。うん、いいぞいいぞ、いける。
さっさと勉強を済ませて、今年は博物館に通おう、今年で最後になるから、ふれあい動物園のポニー(小学生以下限定)にもいっぱい乗りに行こう、とお楽しみの相談をする余裕さえある。今年は方針設定やスケジュール調整、対策ひねり出しにエネルギーを奪われる心配がない、と思うと、心が晴れやかだ。
そして今日。じゃあ、これ、軽~くいってみようか、と、学年最初の主要4教科テストのうち、得意な方の国語と理科に、きっちり制限時間を計って挑戦させてみた。全部教えた覚えのあることばかり。楽勝、楽勝。
ところが結果は惨敗。両方とも60点も取れなかった。オウ、マイ、ジャスパー。君は自分の興味のないことは、すっぽりすっぽり、どんどんじゃんじゃん忘れてしまうことをママはすっかり忘れていたよ。
明日のテストは算数と社会。
うーん、明後日から、頑張ろうか。ね。
4/22追記
社会はヨシヨシ、算数はアラアラでした。点数差は実に3倍以上。こちらはまあ、想定内。良く頑張りました。
2016年4月16日土曜日
ホームスクーラー・J
新年度、新学年が始まって、はや10日。ジャスパーと相談して、今年も学校へは行かず、学習は家で行おうということになった。3年生の4月からの五月雨登校、別室登校、同伴登校を経て、不登校で落ちついて、今年度はついに6年生。
ジャスパーは就学前に高機能自閉症の診断を受けている。色々なことに敏感だ。五感の過敏、心の過敏。各種刺激に弱い。「いっぱいいっぱい」になりやすい。
「いつもと同じ」「平穏な日常」が好きなジャスパーにとって、学校のイベントは、お楽しみではない。大きい声が苦手、楽器の音が苦手。イベントの練習も、練習のための時間割の変更も、ジャスパーにはいちいち一大事だ。
そして一番の苦手の運動会が、ジャスパーの学校では毎年、新学年早々の6月の初めに催される。運動会の練習はゴールデンウィーク前から始まるので、運動会終了までは、学校に「平穏な日常」はやって来ない。
昨年度、5年生の時は、運動会終了後から行きます、と言って学校を休んだ。学校に行くの、行かないの、というやり取りをしなくていい生活は、ジャスパーにも私にも快適だった。生活リズムが整うので、家庭学習もスムーズ。結局、その後もホームスクールでいくことにした。
そして今年度。最初からホームスクールを選んだのだが、もしかしたら少し、変わってくるかもしれない。新しい担任の先生が美術の先生なのだ。週一回、放課後一時間、図工の授業をやってみようか、という案が出て、ジャスパーも乗り気になってきた。ウンウン、面白そう。
いわゆる学習の方は、今まで通り、私が見る。内容については、また今度。
ジャスパーは就学前に高機能自閉症の診断を受けている。色々なことに敏感だ。五感の過敏、心の過敏。各種刺激に弱い。「いっぱいいっぱい」になりやすい。
「いつもと同じ」「平穏な日常」が好きなジャスパーにとって、学校のイベントは、お楽しみではない。大きい声が苦手、楽器の音が苦手。イベントの練習も、練習のための時間割の変更も、ジャスパーにはいちいち一大事だ。
そして一番の苦手の運動会が、ジャスパーの学校では毎年、新学年早々の6月の初めに催される。運動会の練習はゴールデンウィーク前から始まるので、運動会終了までは、学校に「平穏な日常」はやって来ない。
昨年度、5年生の時は、運動会終了後から行きます、と言って学校を休んだ。学校に行くの、行かないの、というやり取りをしなくていい生活は、ジャスパーにも私にも快適だった。生活リズムが整うので、家庭学習もスムーズ。結局、その後もホームスクールでいくことにした。
そして今年度。最初からホームスクールを選んだのだが、もしかしたら少し、変わってくるかもしれない。新しい担任の先生が美術の先生なのだ。週一回、放課後一時間、図工の授業をやってみようか、という案が出て、ジャスパーも乗り気になってきた。ウンウン、面白そう。
いわゆる学習の方は、今まで通り、私が見る。内容については、また今度。
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