運動会が終わった。やっと終わった。 我が家は小学校のすぐ近くにある。練習の声も音楽も、全部筒抜け。大人も子どもも、おつかれさま。
練習の間中、私はブログが書けなかった。ひとたびキーボードに向かえば、「運動会が嫌いだー、大嫌いだー!」と書いてしまいそうで、楽しく一生懸命頑張っている人達に申し訳ないような気がして、ずっと自粛していた。ああ、でも、ハハハ、書いちゃった。
運動会が好きな人には、練習も本番も、面白くて楽しいのだろう。そのお楽しみがなんと1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて楽しいんだろう。運動会、大好き!」となるのだろう。
けれど、運動会が嫌いな人には、練習も本番も、面白くも楽しくもない。辛く苦しいだけだ。その苦しみが延々と1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて辛いんだろう。運動会、大嫌い!」となる。
まあつまり、そういうこと。
私の息子、ジャスパーは身体が小さく動作も不器用だ。私もそうだったから仕方ない。という訳で、ジャスパーの運動会嫌いも、やっぱり仕方ない。行列は先頭、かけっこはビリ。とても目立つ。いじめられる。他の競技でも得点に貢献する活躍は当然ない。いじめられる。能力差が一目瞭然となる運動会は、実はいじめのターゲット選定会の側面を持っていると思う。それでも、アレよりはマシ。
アレとは、すなわち、ダンスのことだ。音楽センスも身体能力もバラバラの子どもたちに、なぜ「動きを揃える」ことを求めるのか。私は運動会のダンスが大嫌いだった。
ダンスが好きな子の踊りは素晴らしい。全身から踊る喜びが溢れ、熱が鼓動が、観客に伝わり、観客も喜びで満たされる。ダンスが好きな子だけ、踊りたい子だけ、踊れば良いではないか。その方が演る側、観る側、みんな幸せだ。
「チームワークを育むため」、とよく言われるが、果たして運動会のダンスで「チームワーク」が育つのだろうか。「チームワーク」を形成するものはリーダーシップと協調性、それを導く能力は、自主性、問題解決能力、創造力と想像力、だと思う。
運動会という一大プロジェクトでそれらの能力を育んだり発揮したりできるのは、子どもたちではなく、大人の先生たちだろう。
子どもたちの参加は最後の最後、「はい皆さんご一緒に」の部分だけだ。出来上がった台本のもと、プロジェクトの遂行だけを求められる。子どもの頃の私には、従うことしか許されない立場であるということを思い知らされる儀式にも思えた。
40年前、現役の小学生だった私は運動会のダンスの練習でしぶしぶ踊って先生に叱られた。もっと楽しそうに、と指導された。「元気の出ないロージーちゃんを励まして」と先生から言われた級友たちに取り囲まれ、エールやらアドバイスやらヨイショやらを受けた。学校へ行くのがイヤになった。
ニコニコして踊ってあげない限り、先生に叱られてあげなければならないし、級友から励まされてあげなければならない。こう悟ったロージーちゃんは自分の心を殺すことにした。ニコニコして踊った。みんな、喜んだ。私の心の死を、みんなに喜ばれ、拍手までされてしまった。
学校全体で楽しむはずの運動会。どうしてほとんど全てのプログラムが「全員参加」なんだろう。リレーの選抜があるなら、ダンスも騎馬戦も徒競走も、「その競技を楽しめる人だけ参加」方式でも構わないはずだ。
適材適所を見極め、どの競技に誰が参加するかをクラス全員で知恵を尽くして考えることこそが、本当のチームワークと言えないだろうか。
学校の運動会の意義が「みんなで参加すること」から「みんなで楽しむこと」に変わっていくことを切に願う。
運動会が終わって、心底ホッとした。ジャスパーと喜んだ。びじゅチューンの「ルソ~~~♪ファイブ♪」を二人で踊った。宇宙兄弟の「あがって~♪のぼって~♪そら~をつらぬいて~♪」も踊った。私もジャスパーも、好きな踊りなら、いくらでも踊る。