Sweetbeansoup について

「ねえねえ、ママ。sweet bean soup ってなあに?」「お汁粉のこと。美味しそうでしょ~。お汁粉、知る子、ウフフ」「ダジャレだね、ママ」「寝る子は育つ。知る子も育つ。ウフフフフ」「もう寝ようよ、ママ」「ハイ、育ちましょう~」

2018年12月19日水曜日

ホームスクーラーなグッズ

ずっと更新をサボっていたこのブログ。立ち上げの理由は、「ジャスパーおうちで頑張ってます」のリアル周囲へのアピールと、ホームスクール、ホームスクーラーという言葉を広める微力ながらのお手伝い、というものだった。

ジャスパーの頑張りはだんだん理解されるようになってきて、心配されることもほとんど無くなり、ほめてもらえるようにさえなってきた。

ホームスクールという言葉も、ブログを始めた頃と比べると、かなり普通の語彙として認知されてきた感がある。

と言うわけで、いつの間にか足が遠のいていた。もしずっと楽しみにしていてくださった方がいらしたら、すみません、ありがとうございます、はぐはぐ。


そして今日、突然再開しようと思ったきっかけは、ツイッターの相互フォローの方からのメッセージ。私がオリジナルグッズを細々と並べているサイトの紹介をしてくださったというお知らせ。

このサイトにグッズを並べているのも実は「ホームスクール」という「言葉」の普及が第一の目的で、「モノ」についてはあんまり真面目じゃなかった。自分が使いたいものを作って、欲しい方がいらしたら、コンナノで良ければ、ご一緒にどうぞ~、くらいのゆる~い気持ちだった(スミマセン)。

その実用性を認め、ご自身のブログで応援までして頂いてしまったのだ。そしてそして、グッズのホームページ立ち上げまでお勧め頂いてしまった。ありがとうございます、はぐはぐ。

ああ、やろう、やらなきゃダメだ、ロージーママ。

色々な人が使えるデザインを考えよう。ジャスパーが大きくなって、すっかり大手を振って外出できるようになった今だからこそ、平日朝~昼、外出しにくいホームスクーラー親子を応援しよう。心のお守りになるようなグッズを作ろう。


ホームスクーラーなグッズを作る人が、どんどん増えたらいいなあ。

ホームスクーラーなグッズが、ひとつのジャンルになるくらいになったら、いいなあ。

ホームスクーラー親子が、平日も胸を張って外出できるようになったら、ああ、い~いな~あ。



*サイトのアドレスはこちら。




2016年8月8日月曜日

ジャスパーと夏休み、と、私。

ジャスパーと夏休み。二人の息はピッタリ!というほどでもなく、ほぼ平常心だ。

ジャスパーは学校には通っていないので、学校がお休みでも生活にさして変わりはないのだけれど、ママは密かにジャスパーの単独お出かけ、お友だちとのプールや外遊びを楽しみにしていた。

学校がある日の就学時間帯は「あらっ、学校は?」「おう、サボりか!」という優しい大人の温かな声かけが、申し訳なくも怖いので、一人ではお散歩にもお使いにも出せない。いつでも保護者同伴だ。

加えて住環境。マンションとは名ばかりの昭和築の小さな賃貸住宅住まい。ジャスパーの個室は用意してはあるもののベッドがまだ買えず、居間のローテーブル(要するにコタツ)を移動して布団を並べて寝ているので、24時間、ほぼべったりの二人暮らしだ。

私は「一人の時間」に慢性的に飢えている。夏休みを指折り数えていたのは、私の方だった。

夏休み中もいつも通りの学習をさせたいのは山々だったけれど、学校の夏休みドリルをわざわざ買った。知っている子に出会った時に、「ジャスパー、宿題ないんだろ?いいなあ!」から発生するかもしれない、イジメ封じのお札効果を期待しての小細工だ。

準備は万端、やりたいことリストまで作って、私は夏休みの到来を待ち構えていた。


けれど。

フタを開けてみれば、生活はあんまり変わらなかった。仲良しのお友だちは、いつもの習い事に加え、キャンプに旅行に、とても忙しくてほとんど会えない。会えても気温が高過ぎて、外遊びができない。

我が家はベッドも買えないギリギリ生活なので、旅行の予定は当然ナシ。夏休みらしいことをなかなかしてやれない。ごめん、ジャスパー。


先日、ようやく夏のイベント、「お友だちと花火大会!」に漕ぎ着けたけれど、夜の外出なので、私が同伴した。ああ、私の「一人の時間」はどこ。

三人できゃあきゃあ言いながら砂浜に敷物を広げ、場所を確保して、私は子どもたちに言った。「暗くなる前に、屋台に行って、美味しいものを探しておいで」。軽く手を振り、仲良く連れ立って歩いて行く二人の背中を見送った。

すると突然、ぽっかり、「一人の時間」ができた。砂浜、潮風、黄昏、三日月。最高の条件。

私は正座をほどき、膝を抱えて座り直した。波の音。遠いざわめき。あ、ジャスパーが大人になって巣立ったら、その先、ずーっと、一人の時間なんだ。突然、当たり前なのに忘れていたことに思い当たった。

「ちゃんと育てて、しっかり手放す」、ジャスパーが生まれたときから心に決めていたこと。ジャスパーはもう12歳だ。来年は中学生。二人の時間は、あまり残されていない。

少年二人が戻ってくるまでの時間は、20分足らずだったと思う。

でも、とりあえず、私は「一人の時間」を満喫して、満足した。どんどん減っていく「二人の時間」に気づくこともできた。やっぱり必要、「一人の時間」。すごく大切、「二人の時間」。


キラキラの花火に顔を輝かせる少年二人の横顔を見ながら思った。「ああ、子育て、満喫した~!満足した~!」と言えるおばあちゃんに、なりたい。うん、なろう。



あ、「面白かった~!」も言いたい。

ぜひ、言いたい。





2016年7月16日土曜日

"困っている子"と"困った大人"

これはジャスパーが学校に行けない日が多くなった頃、3年ほど前の話。



アスペルガーの私は、とても疲れやすい。1日出かけると1日寝込むのが通常なのに、この頃は、学校、病院、他、各機関での面談が毎日のように続いていた。

やっと家に帰っても、面談時に話がしやすいようにと書き物、調べものもした。どんどん疲れて夜、眠れなくなった。ジャスパーの寝言、歯ぎしり、夜驚も続いていた。


そんなある日のこと、台所の隅に座り込んで動けなくなっているところをジャスパーに見つかってしまった。シンク前、ゴミ箱横、とても居心地が良いとは言えない場所。

飛んできたジャスパーが尋ねた。「ママ、大丈夫?ママ、困ってる?…ボク、"困った子"?」。じっとうつむいている私の顔の下に潜るようにして、無理やり覗き込んでくるジャスパー。


「ううん、キミは"困った子"じゃないよ」。うめくように私は言った。「キミは今、"困っている子"なの。だから、ママはキミを助けたいの」「そうなのか~」「そうなのよ~」「ママ、ありがとう」「うん」。

二人ではぐはぐして、二人でちょっと泣いた。

ジャスパーは心配している。私を、そして自分自身を。自分が"困った子"だったらどうしよう、"悪い子"だったらどうしよう。私も抱いていた覚えがある、子どもの頃の心配ごと。


「…重い」。しばらくして我に返った私は、すっかり全身脱力してもたれかかっているジャスパーをひっぺがしながら、言った。「ねえ、ジャスパー」「ン?」

「"困った大人"っているでしょう?」「ウン?」「そういう人って、わがままだったり、乱暴だったり、甘えん坊だったり、まあ、"子どもっぽい"よね」「ウン」ジャスパーが居住まいを正した。

「大人が、"子どもっぽい"と、困るんだね」「ウン」「でも、子どもが、"子どもっぽい"のは自然なんだよ」「?」「だって、ネコはネコっぽいし、イヌはイヌっぽいでしょ」「あ、そっか」「だから、いいの」「そうなのか~」「そうなのよ~」

なんだか元気になってきた。そうだ、いいんだ。大丈夫。私は続けた。


「子どもは、大人になるまでに、"困った"を減らす、"いい方法"を見つける練習をするの。で、その練習が足りないまま、"子どもっぽい"ままで大人になっちゃった人が~~、」「"困った大人"!」「ご名答」

ジャスパーを安心させるつもりで話を始めて、自分も安心してしまった。


そうだ。困った減らしの練習中なのが、子ども。

今回の"困った"も、見方を変えれば、練習用の教材だ。

大人のママは、これまでの練習と経験を生かして、ウィンウィンの"いい方法"をひねり出しちゃおうじゃありませんか。

ジャスパーの目の前で、困った減らしのやり方を実地で実践で、見せて教えちゃおうじゃありませんか。


うん、よーし、俄然、元気出た。私はジャスパーの手を取って、立ち上がろうとした。

「…あー、ジャスパー、ゴメン。ママ、足しびれちゃった」

ジャスパーはママの手を取って、立ち上がった。








2016年7月15日金曜日

教える順番・国語の話

ジャスパーの学習サポートを始めて6年目。ジャスパーに教えてきてわかったことは、国語(第一言語)の習得、習熟が、何よりも大切だということ。

ジャスパーに教えていると、ボキャブラリーの大切さをひしひしと感じる。理科と社会は、突き詰めてしまえば、ボキャブラリー増強科目だ。そして算数さえも、鍵となるのはボキャブラリーだった。


ジャスパーとの算数は、入学直後から、いつも悩みの種だった。算数障害を疑ったりもした(実際そうかもしれない)。それが、ジャスパーの年齢が上がるにつれて、だんだん教えやすくなってきたのだ。

算数の特訓をしたわけではない。ジャスパーのボキャブラリー増加に伴って、理解力、洞察力、推理力も一緒に育ってきたのだ。

教える私も、ジャスパーのボキャブラリー増加で、説明する時に使えることばが増えて、どんどん楽になってきている。

ことばが理解を助ける。思考を導く。ジャスパーに足りなかったのは、算数力ではなくて国語力。生活の中で稼ぐ経験値、ボキャブラリーだったのだ。


小学校の算数は、学び手にことばが足りない状態で理解させようとするから、コトが必要以上にややこしくなっているのではないだろうか。

長方形の面積の計算を「底辺」という言葉がまだ理解できない段階の子どもに、「底辺」を「よこ」、高さを「たて」と呼び変えて、「たて×よこ」として教え込むから、面倒なことになるのだ。

「底辺」がことばとして子どもに通じるようになってから、三角も四角も台形も、ボトムは一律「底辺」で教える方が合理的だ。

三角形の面積「底辺×高さ÷2」も、よくわからないまま丸暗記させるより、「長方形を半分に切れば、そりゃあ三角形になるでしょう」と子どもが体験的に自然にわかるようになってから教えれば、教え手、学び手、双方とも快適になるだろう。

平行四辺形が長方形を水平に潰したものであることも、子どもがある程度育ってくれば「見抜ける」し、平行四辺形とひし形が仲間であることも、教えるまでもなく「わかる」。

垂直、平行、円周、直径、半径、などの単語が生活の中でボキャブラリーに追加されてから、「向かい合う二つの辺」などとということばが何を意味するものであるか、無理なく理解できるようになってから、図形の問題に取り組めばいい、と今の私は思う。

図形の問題だけでなく、小数も分数も、ややこしい単位も、工作や買い物、料理などを通じて、算数用語がジャスパーの生活ボキャブラリーに追加されてから、教えてやれば良かった。

あああ、今頃気付いた。ジャスパー、ごめん。 


もっと本を読もう。ことばを覚えよう。生活経験値を上げて、ボキャブラリーを増やそう。

算数は、ゆっくり丁寧にやろう。今わからなくても、次に挑戦する時には、きっとわかるようになっているはず。今は種を蒔いておこう。一緒に育てよう。大丈夫、大丈夫。



青いトマトを収穫するから、手間暇かけて料理しなければ食べられないのだ。真っ赤に熟れるまでちゃんと待てば、そのまま美味しく丸かじりできる。





2016年7月14日木曜日

教える順番・算数の話

ジャスパーは算数が苦手。学ぶ本人は悶え苦しみ、教えるママも嘆き悲しむくらい、算数が苦手。

私はジャスパーに算数を教えることをよく「波打ち際で砂のお城を作るよう」と表現する。まあ要するに、じれったい。ああ、もう、どうして、キーッ!となるのを押さえるために、ピースフルな砂浜の映像を脳内再生する。ああッ、もうッ、どうしてッ、ざざーん。気を取り直して、ハイ、もう一度。


家庭での学習サポートは、ジャスパーが不登校になる前、入学直後から始まった。授業がわからない。宿題ができない。付きっきりで宿題と格闘した。3時間以上かかることも珍しくなかった。

教えて教えて、やっとわかって、とうとうできるようになっても、しばらくすると、ジャスパーの理解は波にさらわれていってしまう。本人は真面目に、必死で頑張っているのだ。泣きながら机に向かうジャスパーをなだめたり励ましたりしながら、私はこっそり途方に暮れた。


今年6年生のジャスパーと一緒に、算数の学習を五里も十里も霧中になって、千里の道をしょっちゅう引き返しては一歩から歩き直しているうちに、わかってきたことがある。ジャスパーに問題があることは、早い段階からわかっていた。でも、「算数」にも、いや、「教える順番」にも、問題があるのではないだろうか。


ジャスパーが使っている算数の教科書の段取りはこんな感じ。①問題提起。②解き方についていくつかの考え方バリエーションを並列で紹介。③それぞれについてみんなで考える。④解き方教授。その後、⑤自分で問題に挑戦。

この段取りは「考える力を身につける」という目的にかなっているように思えるが、よく考えてみると「すっかりわかっている大人」向けな気がしてならない。わかっている大人なら、落ち着いて、長い長い説明を受け入れることもできるだろう。バリエーション紹介を楽しむことさえできるだろう。しかし、相手は予備知識を持たない子どもだ。


「まっさらな子ども」になったつもりで見てみよう。①問題提起←全然わからない。②解き方紹介←ほとんどわからない。③みんなで考える←まだまだわからない。④解き方教授←やっとわかってくる。⑤問題に挑戦←ついにわかる!

授業では五段階の段取りうち、最初の実に三段階までが、延々とわからないままで進んでいくのだ。つかみはオッケー!(古いか)の逆。子どもたちは、わからない話に退屈しないだろうか。わからない自分に不安を感じないだろうか。

自閉症児のジャスパーは、簡単に退屈するし不安になる。脱線しやすいし混乱してワケワカランになる。授業の第四段階、メインイベントの解法教授まで、たどり着くことができないのだ。そりゃあ授業が苦痛な訳だ。


自閉症の人はその特性から、日本語より英語の方が文法的に分かりやすく感じると言われる。私自身、「何が」の主語がどんなものかわからないまま色々な説明を受け、最後にやっと「どうだ」と述語を明かされる日本語より、「何が」「どうだ」と知らされてから、追加で説明される英語の方が、安心で、迷子になることなく、受け入れやすい気がする(もっと早く気付きたかった)。

さて、教科書の算数の教え方は、とても日本語的だ。問題から答えまでの距離が長い。ジャスパーの話では、学校には「塾でやったから、知ってまーす、できまーす」な子が、少なからずいるそうだ。段取りの②、③段階、解法バリエーション考察に参加できるのは、そんな子たちと、日本語的教授法に適応できる、一握りのいわゆる「地頭の良い」子たちなのではないだろうか。

日本語文法が苦手にできているジャスパーに、日本語的な教え方はキツイ。ここまで考えると、教科書に別れを告げることにためらいはなくなった。解法バリエーションでジャスパーを混乱させ、私を悩ませてくれた、あいさんに、たくみさんに、その他大勢のキャラクターの皆さんに、サヨナラ。

ジャスパーの脳の作りに合った教え方を探せ!そう、それこそが、自身も当事者であるママの使命。自分が枠にはまるのは、ムリ。それを知っているから、ジャスパーを枠にはめるのも、ナシ。


思い立ったら即実行した。主語(問題提起)の直後にすぐ述語(解法教授)。問題に取り組み、繰り返し、既知という名の安心感を作った上で、ゆとりがあれば、解法バリエーション考察。ヘリクツやコジツケ、混乱のもとになりそうな文章題は、ばっさり無視。

ビンゴ。話が早い。教える側も学ぶ側も面白い。ジャスパーの食い付きが良くなった。失っていた自信も取り戻しつつある。ジャスパーの口から「ママ、算数って面白いね!」という言葉さえ飛び出すようになった。


とはいえ、ジャスパーとの算数が難業苦行なのは変わらずだ。ぐるぐる、ぐるぐるの回り道。時々、二人で協力して乗り越える段差。

同じような景色を何度も見てきているけれど、それでもそれが、緩やかな螺旋階段になっていることに、最近気付いた。

だんだん、風通しが良くなってきた。だんだん、見晴らしが良くなってきた。






2016年6月18日土曜日

勉強ってなんだ

「ボク、勉強、キライ!」

ジャスパーが初めてこんなことを言ったのは、実は就学前。ジャスパーに『勉強』らしいことを全然させていなかったママは、とても驚いた。

「えっ、えっ、ジャスパー、『勉強』ってなんだか知ってるの?」「知らないよ、でも、キライなんだ」ジャスパーは澄まして答えた。「ええええ~」

テレビに、マンガに、ヨノナカにあふれているこのフレーズを、ジャスパーはどこからか聞いて丸覚えしてしまったのだろう。

「あのね、ジャスパー、『勉強』ってね、動物のテレビで見た、『学習』と、まあ、おんなじだよ」「ふうん?」「ネコが遊びから狩りを覚えたりするアレ、アレ」「ああ~」

「おサルさんが海の水でおイモを洗って食べたら、しょっぱくて美味しかったからいつもするようになった、っていうのも、それを見ていた仲間もマネをするようになった、っていうのも」「美味しそう~」

「うん、勉強するとね、上手になったり、美味しくなったり、ああ、そう、便利になるんだよ」「そうなのか~」「そうなのよ」



この日から、「勉強ってなんだ」に対するシンプルでわかりやすい答えを探すようになった。

他の答え。

「インプットして、アウトプットできるようになること」おお~、シンプルだ。シンプル過ぎてわかりにくいか。

「聞いたり読んだりして、分かったり覚えたりして、使えるようにすること」まあそうなんだけど、まだわかりにくいか。



結局、最初の教え方が一番通じたようだ。「便利にすること」。

計算ができないと不便。漢字が読めないと不便。だから、覚える。うん、そうだ。そういうことだ。

地理を知っていると、歴史を知っていると、テレビやドラマが面白い。映画も面白い。だから、覚える。そうだそうだ、「面白くすること」でもあるんだ。



実際、私の勉強は、楽しむためにすることがほとんどだ。不便克服も、「面白い」がベース。

感覚過敏で芳香剤や洗剤が使えないワタシ。ハーブも、重曹とクエン酸掃除術も、「おおお~」の瞬間が面白いから、勉強する。

好奇心旺盛なワタシ。ネットの海に漕ぎ出せば、英語の波で溺れる。「おおお~」とネットを面白くするために、英語の勉強もする。



勉強ってなんだ?

「不便さを減らして、面白さを増やすこと」



うん、そうだ、そうだ。勉強って、面白いんだ!

ジャスパー、勉強しよう!






2016年6月7日火曜日

ダンスは運動会の後に

運動会が終わった。やっと終わった。 我が家は小学校のすぐ近くにある。練習の声も音楽も、全部筒抜け。大人も子どもも、おつかれさま。

練習の間中、私はブログが書けなかった。ひとたびキーボードに向かえば、「運動会が嫌いだー、大嫌いだー!」と書いてしまいそうで、楽しく一生懸命頑張っている人達に申し訳ないような気がして、ずっと自粛していた。ああ、でも、ハハハ、書いちゃった。


運動会が好きな人には、練習も本番も、面白くて楽しいのだろう。そのお楽しみがなんと1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて楽しいんだろう。運動会、大好き!」となるのだろう。

けれど、運動会が嫌いな人には、練習も本番も、面白くも楽しくもない。辛く苦しいだけだ。その苦しみが延々と1ヶ月ほども続く。「ああ、運動会!なんて辛いんだろう。運動会、大嫌い!」となる。

まあつまり、そういうこと。


私の息子、ジャスパーは身体が小さく動作も不器用だ。私もそうだったから仕方ない。という訳で、ジャスパーの運動会嫌いも、やっぱり仕方ない。行列は先頭、かけっこはビリ。とても目立つ。いじめられる。他の競技でも得点に貢献する活躍は当然ない。いじめられる。能力差が一目瞭然となる運動会は、実はいじめのターゲット選定会の側面を持っていると思う。それでも、アレよりはマシ。

アレとは、すなわち、ダンスのことだ。音楽センスも身体能力もバラバラの子どもたちに、なぜ「動きを揃える」ことを求めるのか。私は運動会のダンスが大嫌いだった。

ダンスが好きな子の踊りは素晴らしい。全身から踊る喜びが溢れ、熱が鼓動が、観客に伝わり、観客も喜びで満たされる。ダンスが好きな子だけ、踊りたい子だけ、踊れば良いではないか。その方が演る側、観る側、みんな幸せだ。


「チームワークを育むため」、とよく言われるが、果たして運動会のダンスで「チームワーク」が育つのだろうか。「チームワーク」を形成するものはリーダーシップと協調性、それを導く能力は、自主性、問題解決能力、創造力と想像力、だと思う。

運動会という一大プロジェクトでそれらの能力を育んだり発揮したりできるのは、子どもたちではなく、大人の先生たちだろう。

子どもたちの参加は最後の最後、「はい皆さんご一緒に」の部分だけだ。出来上がった台本のもと、プロジェクトの遂行だけを求められる。子どもの頃の私には、従うことしか許されない立場であるということを思い知らされる儀式にも思えた。


40年前、現役の小学生だった私は運動会のダンスの練習でしぶしぶ踊って先生に叱られた。もっと楽しそうに、と指導された。「元気の出ないロージーちゃんを励まして」と先生から言われた級友たちに取り囲まれ、エールやらアドバイスやらヨイショやらを受けた。学校へ行くのがイヤになった。

ニコニコして踊ってあげない限り、先生に叱られてあげなければならないし、級友から励まされてあげなければならない。こう悟ったロージーちゃんは自分の心を殺すことにした。ニコニコして踊った。みんな、喜んだ。私の心の死を、みんなに喜ばれ、拍手までされてしまった。


学校全体で楽しむはずの運動会。どうしてほとんど全てのプログラムが「全員参加」なんだろう。リレーの選抜があるなら、ダンスも騎馬戦も徒競走も、「その競技を楽しめる人だけ参加」方式でも構わないはずだ。

適材適所を見極め、どの競技に誰が参加するかをクラス全員で知恵を尽くして考えることこそが、本当のチームワークと言えないだろうか。

学校の運動会の意義が「みんなで参加すること」から「みんなで楽しむこと」に変わっていくことを切に願う。



運動会が終わって、心底ホッとした。ジャスパーと喜んだ。びじゅチューンの「ルソ~~~♪ファイブ♪」を二人で踊った。宇宙兄弟の「あがって~♪のぼって~♪そら~をつらぬいて~♪」も踊った。私もジャスパーも、好きな踊りなら、いくらでも踊る。